風景の建築

 「風景」を考えるようになったのは、いつの頃からであろうか。意識の上で顕在化したのは「建築」よりもずっと後のことであるが、潜在的には、おそらく子供の頃まで遡ることになるだろう。もっとも古い風景の記憶が何歳くらいのものなのか……。真っ白な雪一面の田んぼ道を、白い山羊を引きながら歩く兄の後ろを必死になってついてゆく情景が、今でもはっきり蘇る。これが私の「原風景」というものなのであろう。春、田んぼ一面に広がるレンゲ草の上に寝転がると、自分の身体が空に向かって落ちていきそうに感じた不思議な体験。夏、ホタルを捕まえに行った夜のこと、降りしきるようなカエルの鳴き声と、闇に舞いゆらめく光の軌跡。秋、稲刈りをする親たちの仕事を手伝う合間、田んぼの土手でイナゴを捕まえた手のひらの感覚。冬、風がつくる雪丘のアンジュレーションと、表面が冷えて固く張ったその雪の上を渡ってゆく面白さ。――生まれ育った環境のせいもあろうが、子供の頃の思い出はなぜか「自然」と「風景」につながるものが多く、記憶の内容もビジュアルなものが多い。  そんな田舎の風景を後にして、「建築」をめざして上京したのは何年前のことになろうか。入学式の帰り、ひとりで代々木のオリピック屋内競技場を見学に行き、吊り屋根構造が造る力強い曲面天井を見上げながら、トリ肌をたてて、「よし、オレもいつかきっと、こんなスゴイ建築をつくるぞ!」と、決意を新たにしたものだった。めざすは丹下健三―ということで構造デザイン研究会に入り、その気になっていたものの、構造力学で単位を落とし、早くも挫折。やがて、白井晟一やカルロ・スカルパといった建築家の作品をとうして建築への関心も、ダイナミックな構造表現やテクノロジカルな造形表現から、素材感やディテール、歴史様式をモチーフにしたデザインや精神性の高い空間表現へと変わっていった。その一つの結論が「数寄屋」であった。そして数寄屋建築への思い入れは、やがて「庭」への関心へと広がってゆくことになる。  数寄屋あるいは茶室のすばらしさは、そのインテリア空間のデザインにあることは言うまでもないが、もう一つの魅力はエクステリア空間、すなわち「庭」との有機的なつながりである。内外空間の仕切りが曖昧で、相互浸透する傾向のある伝統的な日本建築の中にあって、壁でキッパリと区切る茶室はやや異質ではあるが、「露地」という外部空間が用意され、時間の介在と歩行という行為によって内外空間の連続性が獲得される。この数寄屋と庭をテーマにディプロマに取り組み、建築と庭のつながりを考えた空間構成を追求するが、まだ「風景」への視座は現れていない。  卒業後、建築事務所に勤務して実務経験をつんでゆくことになる。30歳を過ぎた頃、スポーツクラブの設計を担当することになり、1万坪の敷地を見に行く。そして、そこにある樹木を調べようとしたものの松と桜以外には何もわからず、あまりの知識のなさに愕然とする。これではいかんと、次の日曜日から毎週休みになるとカメラを手にして近所の街路や公園を歩き、樹木の写真を撮り廻って名前を調べた。昼休みには近くにある明治神宮の杜へ行き樹を見て廻る毎日が続いた。英単語を覚えるようなもので最初はけっこうしんどいが、知っている樹木の数が多くなると、だんだん楽しくなる。季節や風景の変化にも敏感になってくる。今では神宮の杜のどこにどんな枝振りの何の樹があるのかを季節ごとにイメージすることができる。おそらく、この樹木と風景への観察を通してLandscape Architectureへの目が開かれたのではないだろうか。同じ一本の樹木でも、開花、新緑、深緑、結実、紅葉、落葉といった季節の変化はもちろんのこと、光や風、雨や雪といった気象の作用によって映し出される様々な姿がある。幼木、若木、成木、壮木、老木、といった樹齢による風貌の違いがある。そこに集う鳥や虫たちの様子、葉のざわめく音、花や樹や土の匂い、幹に触れた肌ざわり、夏の木陰の心地よさ。そして、樹のそばにいる時の心の安らぎ。「建築」だけではとても実現しえない豊かな世界がそこに在ることに気がついた、というよりは、子供の頃に体験した豊かな風景の記憶が蘇ったということだろうか。  担当したスポーツクラブ(新建築1986年12月号掲載/森京介建築事務所)の竣工を機に退職して、造園家の鈴木昌道に師事。30代にしてランドスケープアーキテクトへの道をめざすことになる。34歳で独立。日本の近代建築運動のリーダーであり、茶室と庭園研究の大家、恩師・笹原先生の師でもあった建築家・堀口捨己の一字を勝手にいただき、〝象(かたち)にとらわれず本質を極める〟との思いを込めて、捨象(すてぞう)とペンシルネームをつける。  「人・建築・自然の調和をめざして」――と志は高々と掲げたものの、現実の仕事はそう理想どうりにはいかないというのが世の常。下請け図面の仕事で糊口を凌ぐパターンは例にもれないが、それでも少しずつ自前の仕事も入るようになる。専門学校の非常勤講師の職を得て、7年間ランドスケープデザインを教えたことが自分自身の勉強と思考を持続する契機となる。ランドスケープ的視野に立った建築観、あるいは建築的美意識から展開してゆくランドスケープの可能性というものを追求してゆくモメントにもなった。  独立後9年目にして手がけたランドスケープの仕事―MuseumPark信州ふるさとの杜・伊那谷道中―を『ランドスケープデザイン』誌に発表(№11/1998.3月号)。信州飯田・伊那谷の古い町並みや民家、里山の風景、民俗文化や伝統産業をテーマにしたミュージアムコンプレックスである。建築家とのコラボレーションの中でランドスケープアーキテクトとして私がめざしたものは、まさにLandscape Architecture―風景の建築であった。その場所の風土や自然環境、土地に刻まれた歴史と風景のコンテクストを読みとり、背景となる景観条件のもとで、造るべき風景のイメージを構想し、樹や草や土や石や水といった自然の素材を用いて構築するエコロジカルな象(かたち)である。建築と共に造りあげる形や空間の調和であり、その意味づけである。また、新しい風景を造ることが目の前の風景を壊すことにつながるという、背中合わせのダブルバインドの状況にあったこの仕事をとうして、計画から設計、監理、竣工までの2年間、アーキテクトのプロフェッションとは何かということを自問自答した苦悩の日々でもあった。  地球環境や景観の問題が建築や都市デザインのテーマとして登場して久しい。いっぽう建築ジャーナリズムは、ポストモダニズムからデコンストラクティヴィズムへと混迷の度合いを深め、過剰表現、何でもありの出口なし状態がつづく。このような中にあって、今、「ランドスケープ」がこの閉塞状況に風穴をあける一つのキーワードになりつつあるように思う。この「ランドスケープ」には英語の「Landscape-景観」と独語の「Landschaft-景域」という二つの概念が含まれる。Land(土地、大地)がその基本にあって、前者が環境の視覚的(ビジュアル)な特徴を表しているのに対して、後者は環境の生態学的(エコロジカル)な特性に焦点を当てた捉え方である。「環境」は常にこの二つの視点から考察してみる必要があるといえよう。そしてさらに大切なことは、その背後にある時間(歴史)の積み重なりと〝存在の意味〟を読みとることではないだろうか。ランドスケープデザインとは単なる植栽や修景のテクニックではない。Landscape Architecture―それは、風景の形而上学である。サスティナブルな環境と美しい風景を創るためには「自然」との共生と緊張関係が保たれた、その〝場〟の象(かたち)が生まれてこなければならない。Landscape Architectureは、そんな〝場〟で、人と建築と自然とをつなぎ、そのサスティナブルな関係を再構築するストラクチャーであり、その哲学である。「風景の建築」――この広がりのある豊かなイメージを喚起してくれる言葉が、宇宙と地球環境の時代を象徴する、「建築」の新しいコンセプトに。

― 1998. 武蔵工業大学建築学科同窓会誌 『 如学会NEWS 』 ―