数寄屋の精神

 数寄屋には二つの意味がある。一つは茶の湯のための建物。他の一つは茶室建築の手法で作られた建物である。いわゆる草案の茶室は前者であり、数寄屋造りと称せられる建物は後者である。前者に於いては、その「精神」が問題とされ、後者に於いては、その「手法」が関心事となる。私がここで問題にするのは前者であり、その哲学である。それでは、この「数寄屋の精神」とは何か。いささか文学的表現になるが、「母なる自然と父なる無常から生まれ、用の美に捧げられた、自由なる作意」と言えるのではないかと思う。 数寄屋は<自然>の素材を用いて造られる。木材をはじめ、竹、草、土、石など多種多彩な材料で構成されている。そして、それらの素材が本来具えている性質や美しさが素直に活かされているのである。そこには、自然と建築との調和があると言える。この「自然に親しむ」という精神は日本文化の特徴の一つであり、数寄屋に限ったことではない。例えば刺身。生魚を切っただけの刺身は正に自然の素材であり、ワサビと醤油はこの素材の味を更に引き立ててくれる。「自然」とはいっても、しかし、「自然そのもの」ではない。料理されていない生魚を食べても美味でないように、山から伐り出した丸太をそのまま用いたりしたら見られたものではない。そこには素材の美を引き出すための細心の注意と加工が必要なのである。草庵茶室の「草」は「真・行・草」の「草」であり、これは「理想化された自然」への回帰なのである。 茶室の構成は非相称的であり、流動的である。そこにあるのは不均衡の美である。完全性を否定し、非完成を以て好しとする「不足の美学」。これが即ち「侘び」である。このような美意識はいったい何処から来たものであろうか。 数寄屋の原型に就いては諸説様々あるが、およそ次の三つに分類できる。第一に、書院であるとする説。これは茶の湯が書院台子の茶から侘数寄の茶へと発展していった流れに対応して、その茶の湯のための空間も草庵化していったという史実に基づいている。その初期のものとして、東求堂の同仁斎。過渡期のものとして、紹鴎の四畳半。完成期のものとして、利休の待庵を挙げることができる。第二に、農家や町屋といった庶民住居であるとする説。これは、草葺屋根や竹格子、土壁や白木造りといった形態的な類似にその論拠を置くものである。そして第三は、遊行僧や隠遁者の庵であるとする説である。第一を様式上の原型、第二を形態上の原型とするならば、この第三は、いわば思想上の原型と言える。その典型的な例として、鴨長明の閑居を挙げることができる。一丈四方のこの草庵は茶室ではなくて住居であるが、粗末な侘び住まいに美を見出した発想の転換と審美性があるという意味で、数寄屋の原型と言えるのではないだろうか。そして、このような隠遁者の美意識の根底にあったものこそ他ならぬ<無常観>であった。 ―ゆく河のながれはたえずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたはかつきえかつむすびて、ひさしくとどまることなし。世中にある、人と栖と又かくのごとし。―(鴨長明『方丈記』より) ブルーノ・タウトが桂離宮を絶賛したことは良く知られている。その評価は、機能と実用に即した簡素な美しさにあった。即ち<用の美>である。数寄屋の本質は、この「用」にある。「用」に奉仕するところに「美」があるのであって、この「用」を離れたところに数寄屋の意味はないと言える。 書院から数寄屋へと発展する過程で柱の寸法も壁の厚さも、より細く、より薄くなっていった。また、茶室の空間も初期の四畳半から利休の二畳へと縮められ、書院に見られた装飾性も排除されていった。これは、一つには合理性、経済性の追求であったと解釈することもできる。不要なものを除き去り、洗練し、純化して行こうとするこの傾向は、ある意味で、近代建築の理念と同一のものであったと言える。しかし、本質的には全く違ったものなのである。利休による「躙り口」の発見は、合理性の追求でもなければ、経済性の結果でもない。それは「精神性」の獲得であった。利休に在って「用」とは、単なるプラグマティックな効用でもなければ、快楽を得るための慰み物でもない。もっと人間存在の根源に迫った、より高い次元に於ける「用」であった。「物と心」への用に奉仕した近代建築、モダニズムの到達し得なかった境地が、そこに在る。 単なる合理性や人間性を超越し、精神性を獲得した、この「用」の概念を把握し得た近代の建築家として、唯ひとりルイス・カーンの名前を挙げることができると、私は思っている。カーンによれば、「デザイン」とは「フォーム」から生じるものであり、「デザイン」が様々な状況によって変化するのに対して、「フォーム」は不変であり本質的なものである。この「フォーム」を把握する過程が「リアライゼイション」であり、これは精神が哲学と宗教を超越した時に獲得されるものである。白井晟一は、この「リアライゼイション」を東洋の言葉で表わすならば「解脱」であるという。それならば、「フォーム」は「用」と訳せるのではないだろうか。 今日、一般に数寄屋とか茶室というと、因習化し形式化した古い建築様式というイメージが強いようである。しかし、そうなったのは江戸中期以後のことであり、本来数寄屋とは、因習にとらわれない自由な創作精神が生み出した建築なのである。この自由なる創作精神を<作意>という。これは茶人の美意識に発したものであり、数寄屋の数奇屋もしくは好き家たる所以である。茶人が各自の好みの意匠で草庵を結び、茶を点てたのであり、そのデザインは多彩であった。 「数奇」には「風流」という意味がある。九鬼周造の説くところによれば、風流は第一に離俗である。流れる風のように、何ものにも囚われない自由な心でなければならない。世俗的価値の破壊または逆転というところが風流の第一歩である。この離俗性が自然美を基調とする耽美性と結びついたところに風流がある。「数寄」には、また一方に於いて、「数を寄せること」という意味がある。即ち「物に執着すること」であり、これは前述の離俗性と矛盾する。そして、同様の矛盾が「自由なる作意」という言葉にもある、ということに気がつく。離俗によって獲得される「自由」と、作意という「執着心」は、確かに矛盾している。しかし、この矛盾を止揚したところにこそ「数奇」の真髄があるのではないだろうか。 「宗易ハ名人ナレハ、山ヲ谷、西ヲ東ト茶湯ノ法ヲ破リ、自由セラレテ面白シ、平人ソレヲ其侭似セタラハ茶湯ニテハ在ルマシソ」と、山上宗二に言わしめた千利休こそは、数奇の達人であったと言えよう。 ― 原文:1979. 武蔵工業大学建築学科卒業設計マニフェスト( 1982. 一部改稿 )―