変わりゆく風景の記憶

信州ふるさとの杜―伊那谷道中―

伊那谷―ふるさとの原風景   南アルプス(赤石山脈)と中央アルプス(木曾山脈)の峰々を配し、その嶺水を集めて流れ下る天竜川と、そこに広がる伊那谷は、厳しくも豊かな自然と庶民の生活と文化の歴史が凝縮された民俗遺産の宝庫である。飯田、下伊那は暖温帯から冷温帯へと気候が変わる境界線上にあり、河岸段丘による標高差が大きいため植生は変化に富み、種類も多い。広針混交樹林を背景に果樹園や桑畑が広がり、山間に畑や棚田が重なる景観は、ここに暮らし、この地に生きた人々の手によって造られ守られてきた、ふるさとの原風景そのものである。

信州飯田―街道と町並みの風景―

  古のみち東山道、中馬が通った伊那街道(中馬街道)をはじめ、遠州街道、秋葉街道、大平街道など、この地にはいくつもの街道が通じ、古くから人馬・産物の集散地として発展してきた。江戸時代には中馬の中継地として繁栄を極め、信州の小京都といわれた飯田の町は多くの商家が軒を連ね、調和した町並みの景観をつくっていた。惜しくも昭和22年の大火で焼失したこれらの町並みのようすは、明治22年に発刊された「信州商工便覧」掲載の銅版画に見ることができる。

神と人と自然の景観

諏訪・伊那地方には古くからの原始信仰「御左口神(みさぐちしん)」があった。地母神であり、作物の豊饒をもたらす農耕の神様である。村々には、このミサグチ神を降ろして神事を行う「湛え」と呼ばれる場所があり、巨木や巨石がその依代とされていた。『諏訪上社物忌令之事』には桜、真弓(檀)、干草(檜)、橡、柳、松木、峰[茅野市高部に現存するイヌザクラ]の七つの湛木(たたえぎ)が記されている。この七木湛(しちぼくたたえ)の信仰は伊那谷の自然風土のもとに「神と人と自然」が共生していた一つの例証といえる。(諏訪社の湛神事が行われたのは諏訪周辺から上伊那郡域までの範囲)

造られた風景

飯田市箱川、標高798mの水晶山の麓、樹林と水田に囲まれた景観の地に造られた新たなる風景「信州ふるさとの杜・伊那谷道中」。中馬街道と町並み、シルク、酒造、伝統工芸など、伊那谷に発展した産業と伝承されてきた庶民文化や民俗芸能、「神と人と自然の共生」をテーマとしたミュージアムコンプレックス。江戸から昭和初期までの伊那谷の文化と景観を再現することがデザインの基本テーマである。山を削り棚田を埋めて造成された敷地は、全体に緩やかな勾配があり、丘陵地の景観を呈している。飯田の古い町並みを再現した町屋ゾーンは、勾配5%、幅員4.5mの「街道」に面して両側に商家が並び、軒下を水路が走る。石置屋根の民家が点在する伝統産業ゾーンは、中馬街道をイメージした並木道。道に沿って流れ、滝となって水晶池(調整池)へと注ぐ流水は天龍川に見立てられた。道は緩やかにカーブし、家並みや樹林や板塀によって見えかくれする風景が、歩くことによるシークエンスの展開を演出する。ループ状の主動線に対して、近道、抜け道、回り道、坂道、参道、石段、石橋、木橋、沢飛び石、とさまざまな副動線が用意された回遊性のある空間構成となっている。断層帯の中央構造線が走る伊那谷大鹿村から運ばれた200個あまりの巨石(緑色岩※)とカツラの巨木が2本。現場発生材の野石と50本あまりの移植保全樹木の利用は、造られた風景を重みと厚みのあるものにしてくれた。棚田の表土は保全され、池や小川の客土として利用。護岸は木杭やシガラミ、野石積等による多孔質なディテールで、水深にも変化をもたせ、多様な生物の生息環境をつくることを企図している。また、ミュージアムパークに併設して温泉施設「伊那谷温泉満願成就の湯」が造られたことも、本プロジェクトの大きな特徴の一つといえよう。古くから温泉は庶民にとって「癒し」と「歓楽」と「交流」の場であったのだから。

※緑色岩[りょくしょくがん](大鹿の青石)  

大断層帯の中央構造線が南北に通る大鹿村の地質は、東側の三波川変成帯と西側の領家変成帯とが接している。小渋川上流の鳶ノ巣付近で産出する緑色岩は、三波川帯の外側にある御荷鉾  系に属し、2億年~1億5千万年前くらいにできたもの。三波川結晶片岩(三波石)に比べて変成  の度合いが小さい。色は青緑色で、片状構造または塊状の石肌を呈する。

失われた風景

1995年9月、はじめて訪れた敷地は、稲穂が実った黄緑色の棚田の重なりと、山肌が剥き出した土取り場の跡地と、トタン葺きの養豚舎と、枝もたわわに実った梨園の広がりと、放置された桑畑と、雑木林と竹林と、― 訪問者にとっては別にどうということもない田舎の風景であったが、その風景も今はもう、ない。新しい風景を造るということは、それまであった風景を壊すということでもある。そしてそれはまた、その風景の記憶を持つ人々から慣れ親しんだ懐かしい思いを奪ってしまうことでもあるのだ。失われた時代の景観を再現し、人々の記憶に残る風景を造らんがために、目の前の現実の風景が失われてゆくという、この自己矛盾。この自家撞着は、「自然」が好きで「風景」に敏感なランドスケープアーキテクトが、新たなる風景を造ろうとする時に突き当たる一つのジレンマなのであろうか。考えてみれば、日本の風景のほとんどすべてが人間の力によって造り変えられつづけてきたものであり、里山の風景などはその典型といえる。山林が開かれて棚田となり、道が造られて家が建つ。移り変わってゆく時間のオーダーは、時代や環境条件によって様々ではあるが、人の営みのあるところ、風景は常に失われ、そして常に造られつづけてきたともいえる。生々流転。人も自然も風景も、移り変わるが常態というものなのであろう。ここに造られた新たなる風景も(失われた風景がそうであったように)長い時間をかけて再び水晶山の麓・箱川の風景として地域の人々の暮らしに馴染み、此処に生まれ育つ子どもたちの原風景の一つとなり、さらには、全国からこの地を訪れる多くの人々の記憶に残る思い出の風景となってくれることであろう。