ミサグチ神とサクラ

 御左口神(みさぐちしん)とサクラ                    1998.4 小林捨象

 諏訪・伊那地方に古くから伝わる「御左口神」は土地の精霊、農作の神様であり、巨石や大樹に宿って水と天候を司り、大地の豊穣をもたらしてくれるものと云われております。 諏訪上社では古くから「廻り神」と呼ばれる神事がありました。これは毎年の農作業開始に先だって神使(おこう)が郡内の村々を廻ってその年の豊作を約するもので、「廻湛神事(まわりたたえしんじ)」とも云われます。神使は巨石や大樹のもとに民を集め、ミサグチ神を降ろして神意をうかがい、その年の豊作を祈念したのです。 『諏訪上社物忌令之事』には、この依代となる巨木を「湛木(たたえぎ)」と称して、桜、真弓(檀)、干草(ひくさ、桧)、橡、柳、松木、峰の七種をあげ「七木湛(しちぼくたたえ)」としております。このうち「桜湛」は茅野市玉川粟沢にある天白社境内と推定され、現在は石碑が建ち、史跡として保存され、新たに植えられた桜の樹々が大きく育ち枝を広げております。 その他の「湛木」も現在の推定地がほぼ判明しておりますが、昔からの「湛木」がそのまま残されているのは七番目の「峰湛」だけです。これは諏訪大社上社前宮の裏山にあるイヌザクラの巨木です。樹高20m、幹周4mと2mの双幹で樹齢推定200年というりっぱなものです。なぜイヌザクラを「峰」と呼んだかは不明です。 「ミネ」に関連する樹木として、ミネザクラ、ミネカエデ、ミネヤナギ、ミネバリ(別名オノオレカンバ)などがあげられます。また、諏訪地方ではイチイのことを「ミネゾウ」と呼ぶことがありますが、イヌザクラと「ミネ」とのつながりはどこにも見当たりません。 「七木湛」のうち二つがサクラの木であるというのも不思議ですが、これはサクラと農耕神との結びつきを考えるうえで注目すべきことでしょう。

 「サクラ」の語源については諸説様々あります。『古事記』ではイネの神アマツヒコヒコホノニニギノミコト(天津日高日子番能邇々芸命)が求婚した相手がコノハナサクヤヒメ(木花佐久夜比売)でサクラの化身とされ、これがサクラ(佐久良)の語源になったものとの説があります。 一方、民族学の研究によれば、「サ」はサツキ(五月)、サオトメ(早乙女)、サナエ(早苗)の「サ」と同根で、これは稲田の神を指すことばだということです。また「クラ」とはイワクラ(磐座)のクラであり、これは神霊が依りつき鎮座する場所を意味します。 したがって「サクラ」とは稲田の神が降臨する依代としての御神木と解することができるでしょう。

 「ミサグチ(御左口)」の語源も様々で、その呼称も「ミシャグチ」だったり「シャグジ」だったり、地域によって異なりますが、農耕の神―作神(さくしん)に御(み)がついた「御作神」がもとの意味だという説が有力です。ここにも「サ」や「サクラ」との類縁性を推測することができるでしょう。 農事暦にあっては、サクラの開花が農作業の時期を判断する重要な指標でありました。各地に残る「苗代桜」や「田打桜」といった名称はそのことを裏付けるものであり、サクラの咲き具合でその年の豊凶を占ったのです。 冬のあと、まだ肌寒い時期に木々の緑が芽吹くより早く、いっせいに咲くサクラの花は春の息吹と大地の生命の蘇生を象徴するかのようです。風に吹かれていっせいに散るサクラの花びらは、神事の際に撒かれる切麻散米(きりぬささんまい)のようでもあり、こんなところにもサクラの花と米とのつながりが認められると言えるでしょう。 ところで、「峰湛」のイヌザクラの花は、いわゆるサクラの花、すなわち五弁花または八重咲きの花弁が単一の花軸につくものではありません。総状花序といって、白い小さな五弁花が総状に軸の回りにたくさん付いているもので、その形がちょうど米俵のように見えます。この花の形に「峰湛」の謎を解く鍵があるように思えます。

諏訪社の廻湛神事のルートは三つあり、いずれも上社前宮を出立してから各村々を廻って前宮へ帰着するものですが、この巡回の最後の場所が「峰湛神事」とされていました。 神使一行は村々の湛を廻り、ミサグチ神を降ろしてその年の豊作を誓約します。そして村人たちは神へのお礼として貢租(米俵)を献上するのです。この廻り湛によって村々の農民たちから奉納された米俵が馬上に満載されて一行は帰途についたものと考えられます。神使が上社前宮に帰着する道筋に「峰湛」があります。三月酉の日(現在の四月中旬)に前宮を出立し、四泊五日から七泊八日(ルートによって異なる)の日程で県(あがた)を巡回して「峰湛」に着くのが四月下旬となるわけで、ちょうどイヌザクラの開花時期と重なります。あたかも献上された米俵の山を象徴するかのごとく枝もたわわに咲き実るイヌザクラの花々が神使一行を出迎えたのではないだろうか。 「峰」とは山のいただきを指す言葉ですが、「峰湛」の場所はむしろ山の中腹にあります。かつての道筋がどう通っていたのかは判別し難いが、上社前宮はこれよりも低い地にあるので、神使一行はこの場所まで坂道を登って来て「峰湛神事」を行い、前宮へと坂道を下って帰ったのであろう。その意味で「峰」と呼んだのかもしれない。あるいは山そのもの、ここでは御神体たる守屋山、さらには諏訪盆地の水源地である八ヶ岳の峰々を指しているものとも考えられます。

古来、山には神が棲むとされ、春には山の神が田に降って田の神となり稲穂の恵みをもたらしてくれるものとされていました。 山に降った雨水や雪解け水が木々の根や腐葉土に貯えられ、養分をいっぱい含んだ恵みの水となって、照る日も曇る日も変わりなく川を流れて水田に供給されるからこそ秋の収穫が約束されるのであって、これはまさに山の神から田の神への変身だと言えるでしょう。 諏訪の湛木があったとされる七ヶ所のうち、ほとんどが平地で、周囲に田畑や人家があったものと思われるが、「峰湛」の場所のみが他と違って山の辺というか、平地から少し山に入ったところにあるのも、このことに関連するものと思われます。 「峰湛」では巨木のもとに民を集めて作物の豊穣を祈願したのではなく、秋の豊作を象徴する米俵の形をした満開のイヌザクラの花の下で、はるか霊峰のかなたからお招きした神に感謝し、山へお送りする儀式が執り行われたのではないだろうか。

このイヌザクラとよく似た花が咲く、ウワミズザクラ(上溝桜)という種類があります。古名をハハカ(波波迦)といって、『古事記』の「天の岩戸」の部分にはハハカを燃やして鹿の骨を焼き占った、という意味の記述があります。同じく『古事記』の「木花佐久夜比売」のくだりには、稲の神ニニギノミコトに見そめられて身籠もったコノハナサクヤヒメが、お腹の子が本当にニニギノミコトの子かどうかとの疑いをかけられて、産屋に火をかけて身の潔白を証明しようとする話があります。この時に産まれたのがウミサチヒコ(海佐知比古)とヤマサチヒコ(山佐知比古)です。 サクラの化身とされるコノハナサクヤヒメは、もしかしたら占いで焼かれるハハカすなわちウワミズザクラの化身であったのかもしれない。 イヌザクラと同じように米俵の形をした花を咲かせるウワミズザクラは占いの道具として、とりわけ稲の豊凶を占う際に燃やす木として象徴的な意味を持っていたのではないだろうか。 このように考えてくると、サクラすなわち サ(稲の神が)クラ(依りつく場所)という呼称はウワミズザクラやイヌザクラの方にそもそも与えられた呼び方であって、ヤマザクラやサトザクラはあとから仲間に入れてもらったのかもしれない。